トリスティスチリハネナシクワガタの色々
チリ中央に分布を広げるチリハネナシクワガタ属、そのなかでも最北RM RegionとVI RegionにApterodorcus tristis (Deyrolle in Parry, 1870):トリスティスチリハネナシクワガタが生息し、普遍的有名種であるA. bacchusとは混生しないとされる。
https://unsm-ento.unl.edu/Guide/Scarabaeoidea/Lucanidae/LUC/APT/tristis.html
(Apterodorcus tristis (Deyrolle in Parry, 1870))
A. tristisは1945年〜1960年のBeneshによる検討で基準種A. bacchus (Hope in Westwood, 1845)のシノニムとなっていたが、Mondaca E., J., and M.J. Paulsen. 2008により有効種であると久方ぶりに復活された。Mondaca氏とPaulsen氏による論文中にはA. tristisに関する分類の歴史がまとめられる。
Mondaca氏とPaulsen氏はMNHNにある"チリ産"とラベルされたA. tristisのタイプ標本の検討を行い、A. bacchusとは異なる有効な種であろうと判断された。JMECでA. tristisのタイプに一致する個体群を見出され、詳しい産地情報を参照された。A. bacchusとの産地間距離は90kmと記述される。
学名有効性復活の論文が出た際、私などは其の生物学的特徴の差異に感心したが、とはいえA. tristisの識別は画像を一見しただけでは少々難易度が高くあった。当時は間違いなくA. tristisと言える実物個体群がなかなか見当たらず分類の理解に時間をかけざるを得なかった。希少ゆえの難しさである。
(Apterodorcus bacchus (Hope in Westwood, 1845))
分類屋の友人とも度々問題視したが、学名の有効性が論じられた後も基準種A. bacchus個体群を"A. tristis"と誤同定して高額出品する標本商が少なからずいた。どこから仕入れたのか聞けば、チェコやフランス等ヨーロッパの業者経由だそうで同定は踏襲しただけという話だった。
分布状況の詳細については後述するが、悪質な詐欺となると"A. tristisしか居ない産地データ"を示す捏造ラベルがA. bacchusに付され"A. tristis"であるとして売られているものもオンライン上で見られた。当時、A. bacchusは通常サイズ1頭あたり数百円〜数千円付近で売られていたが、"A. tristis"は1頭あたり数万円で取引されたのだった。「見分け方の難しい虫は詐欺の温床になりやすい」其の教訓は虫業界の永きに亘りイタチごっこで活きている。故に資料入手時には危機意識が必須である。
もし当記事の読者で「"A. tristis"として入手した個体がある」という人は、誰かに説明する前によくよく調べられたい。
https://www.biolib.cz/cz/image/id261260/
(逆に"A. bacchus"と誤同定されるA. tristisもある)
手元にある個体群は、チリから直輸入した日本の輸入業者ルートと、自身でチリ人採集人から入手した直ルートの2ルートで、其れ等は見事にA. tristisである。A. tristisの分布域周辺は変わっており、一部には原始的なクワガタムシ科既知種Sclerostomulus nitidus (Benesh, 1955)が局所分布する。
(Sclerostomulus nitidus。雌雄差が殆ど見られず外観はチビクワガタ類に似るが、交尾器形態はネブトクワガタ類らしくもある。局所分布する原始的な種。過去には近縁祖先種が広大な分布をしていた時代もあったと考えられる)
http://www.inaturalist.org/observations/98515754 http://www.inaturalist.org/observations/46981178 (Sclerostomulus nitidus生体)
しかし現在は環境破壊や商業目的の乱獲が懸念され採集規制がなされている。A. tristisは比較的多く見られる産地の"自然保護区・国立保護区"規制と、クワガタムシ希少種の場合は原産国チリでの"絶滅危機種(Threatened)への分類"規制の二重規制がある。
現在、トリスティスチリハネナシクワガタは原産国チリ政府環境省管轄のRCE (Reglamento de Clasificación de Especies)に従って絶滅危惧種:EN(Endangered)に分類指定されており資料観察が容易ではない。原産地での調査では個体数が少ないとの事だった。確かに滅多に見られない。
https://consultasciudadanas.mma.gob.cl/storage/records/8LC1RPgBNgyHMhlrSDgMxh8JCR76U88MgR73uyGx.pdf
なおSclerostomulus nitidusもRCEに従って近絶滅種:CR(Critically Endangered)に分類される。ENよりCRの方が厳しい。分布域がごく限られるから採集されやすく、個体数が少ないから採集圧が更に心配であるとの事。
チリハネナシクワガタ属既知2分類群の判別法として、♂大顎背面の特に基部付近、♂大顎内歯数の傾向、♀の前胸背前縁付近の2コブ有無の差異、また上翅肩部突起の突出具合などで見分けられる。A. tristisの♂交尾器は基節が比較的肥大したような形態、♀交尾器は尾片の先端付近硬質部位が比較的細い。現状の観察では、此れ等の判別点で100%有効な相関を示していたため"2分類群間の関係性は別種である"との理解に私は異論ない。
(A. tristis♂個体の大顎背面)
(A. bacchus♂個体の大顎背面)
(♀前半身背面。左:状態がよくないがA. tristis、右:A. bacchus。前胸背前縁付近と肩部を見る)
iNaturalist等では原産地でのA. tristis生体観察が記録される。 A. bacchusとは生息域が被らず、現地で混生が確認された事は無い。
http://www.inaturalist.org/observations/49143272 http://www.inaturalist.org/observations/28417854 http://www.inaturalist.org/observations/73037845 http://www.inaturalist.org/observations/26130777 http://www.inaturalist.org/observations/13218968 https://www.flickr.com/photos/lucianativa/3913457371
(「Mondaca E., J., and M.J. Paulsen. 2008. Revision of the genus Apterodorcus Arrow (Coleoptera: Lucanidae: Lucaninae) of southern South America. Zootaxa 1922: 21-32.」より引用抜粋)
低〜中標高に分布しRio Mataquito river辺りで2種の分布域は分断されているように見える。チリハネナシクワガタ属2種は飛ばないため、最北部の個体群のみだが特化したのだろうと考えられる。
広く分布するなかで、一部エリアのみで特化する例は様々な分類群で見られる。膨大な事が判明してきた此の広大な地球自然界でも、全く期待していなかった新地開拓で新たな発見はまだまだ期待出来る事を思い出させてくれる。様々な人との関わりの過去あれど生物学的には最も面白い分類群の一つ。
【References】
Mondaca E., J., and M.J. Paulsen. 2008. Revision of the genus Apterodorcus Arrow (Coleoptera: Lucanidae: Lucaninae) of southern South America. Zootaxa 1922: 21-32.
Hope, F. W., & Westwood, J. O. 1845. A Catalogue of the Lucanoid Coleoptera in the collection of the Rev.F.W.Hope, together with descriptions of the new species therein contained. J.C.Bridgewater, South Molton Street, London (editor):1-31.
Parry, F.J.S. 1870. A revised catalogue of the Lucanoid Coleoptera with remarks on the nomenclature, and descriptions of new species. Transactions of the Royal Entomological Society of London :53-118.
Arrow, G.J. 1943. On the genera and nomenclature of the lucanid Coleoptera, and descriptions of a few new species. Proceedings of the Royal Entomological Society of London, (B) 12(9-10):133-143.
Benesh, B. 1945. Some remarks on the genus Apterodorcus Arrow (Coleoptera: Lucanidae). Entomological News. 56: 229-234.
Benesh, B. 1955. Some notes on Neotropical stagbeetles. Entomological News 66:97-104.
Benesh, B. 1960. Coleopterorum Catalogus Supplementa, Pars 8: Lucanidea (sic). W. Junk, Berlin. 178 pp.
【追記】
規制される虫は調べる事が大変だが仕方がない。規制に対する考え方は様々あり、人によってはコレクションが高騰する事を喜ぶ。私の場合だと資料追加が難しくなる事を残念と思うが諦めるしかないとも考える。
生物採集や流通の規制はワシントン条約が強力な規制として象徴的で、大抵の規制事由は此の条文の理念に近しい。
ワシントン条約(Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約))は、自然のかけがえのない一部をなす野生動植物の一定の種が過度に国際取引に利用されることのないようこれらの種を保護することを目的とした条約です。
https://www.meti.go.jp/policy/external_economy/trade_control/02_exandim/06_washington/index.html
しかし虫業界に関連する規制については何かと論争がある。此の話題に関する論争も何か不毛味がある。
http://blog.livedoor.jp/takosaburou/archives/50858956.html
https://togetter.com/li/1972533
理不尽な環境問題の話題も見られ、難しい気分になる。外資系利権との癒着も垣間見える。規制には賛成出来る部分と賛成出来ない部分が混在していやすい。考えれば考えるほど難しい。
https://japan-forward.com/japanese/37645/?amp
大規模な自然破壊は事業者が経済活動の為に行う。私自身、ネブトクワガタやミヤマクワガタ、ノコギリクワガタ、ヒラタクワガタなどを採集していた森林も今は軒並み宅地になり、クワガタムシは残された僅かな自然にコクワガタを少し見つけられるくらいになってしまった。。しかし大規模な森林伐採など虫屋は普通やらないから、今回は考察を割愛する。
http://takahata521.livedoor.blog/archives/14725884.html
本文でも言及したSclerostomulus nitidusに関しては以下に引用する2020年の報文にあるように、更に厳しい規制の必要性が呼び掛けられる。
1. 再発見はめでたいことですが、公表する際には注意が必要です。これまで絶滅したと思われていた採集可能種は一般に希少であり、絶滅するまで個体が採集されるたびに商品価値が継続的に上昇します。
2. 2012年に再発見されたばかりの甲虫Sclerostomulus nitidus (Benesh, 1955) は、世界的にチリのCerro Poquiなる唯一の山に生息している個体群のみ知られます。
3. 年間146本の枯れ木をサンプリングした結果、丸太あたりのSclerostomulus nitidusの生息数は5年間(2013-2018)で93%減少、少なくとも1個体が見つかる確率は線形傾向で2030年までにゼロに近づくと推定されました。
4. Sclerostomulus nitidusは地理的分布域が限定されているため、チリの法律では絶滅危惧種に指定されていますが、私たちは、進行中の個体数減少の観察結果と個体発見確率の予測から、新たにIUCN Red Listingの必要性を提案しています。
5. また現地では、Sclerostomulus nitidusのオンライン取引の証拠となるような採集が行われているのを目撃しています。したがって、S. nitidusの生態の研究を補完するために、取引された種や売買された種に関する国内および国際的な政策の統一に焦点を当てることを提案します。
6. 国の政策は最新かもしれませんが、ワシントン条約のような野生生物の取引に関する国際的な法律は時代遅れです。国内政策と国際政策を両立させることで、最近再発見された種が最も被害を受けやすい無制限の取引や売買を阻止するための透明性と監視プロセスについて、宅配業者と真剣に話し合う可能性が出てきます。
(和訳)
https://resjournals.onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/icad.12445
「ワシントン条約など生ぬるい。もっと厳しく規制せい。」とはなかなか豪快な呼び掛けだが、確かに絶滅危惧種の流通に国際取引も国内取引も個体数減少要因として差はあまり無い(自然界での絶対数が少ないと考えれば少量採集すら影響する)。採集済の個体群はともかくも、"これから先"の乱獲の主因になりそうな"過度な売買を促す所作"を抑止したいのが規制の持つそもそもの理念。
http://www.trafficj.org/press/animal/n20100323news.html
規制よりも早く殆ど誰も知らないような時点で入手しておかねば資料観察が難しいとは、まるで発明者にしか持つ事が許されない特許のようである。
http://newshonpo.blog.fc2.com/blog-entry-76.html
私の場合だと、こういった貴重生物資料と理解した個体群を不特定多数の手に渡るような所作は決してしない。放出okでも友人達など信用している方々と虫同士の交換をするくらいに留める。
規制に関わる虫屋側の問題点として"乱獲"がよく挙げられる。不必要に大量に採集したり、採集場を荒らしたり、よろしくない事が乱獲によりやられる。密猟や密輸も問題だが、乱獲は法整備されていない時点にも起こりうるから後々の規制厳格化の理由になる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E7%8D%B2
"採集圧"という言葉を考えたときに、其れが有るか無いか考えれば、物理的には「有る」としか言えない。一方で"無い"と言う人達もいるが其れは"採集圧に耐え切れる"という意味合いかと察する。
希少生物を資料として考えた場合、自然界に存在するなかで少しくらいは採集しないと詳しい事を調べられない。しかし"どれくらいの頻度と量の採集して良いものか"、其の部分で考え無しに乱獲する人達がいると「採集圧は有る」と考えざるを得ない。
自然界に特定の分類群がどれくらい数量が存在しているか、主観的な見込み以外に数え方が無いから難しい。しかし乱獲なんてしない方が良さそうである事くらいは理解出来る。
研究目的の採集に乱獲の必要性は無い。研究者は"自然界の個体数を減らしてしまうのは将来の為にならないから乱獲しないでおこう"と普通は考える。人海戦術を使っても大抵は必要分に抑えられる。地道が一番良い。
昔から標本商をやっている友人も好きでやっているとはいえ長年に亘り虫達の殺生に関わっているため"虫達の呪い"を畏れられ、資料群を大切に扱われる。
では乱獲をする人達というのは誰なのか、どういう目的で、どういう立場の人間が乱獲をするのか考える。大抵の一般人も不要な乱獲はしない。自然界に対して紳士的でない乱獲をしかねないような人達、乱獲を促している人達は、消去法で考えていくと見えてくる。
https://twitter.com/kureshinbotbot/status/897311935108071425?s=46&t=Y3LRnvijz8LLnPpf1u3zBg
https://ideasforgood.jp/issue/ivory-trade/
象牙やオランウータンなどに関連する前例を見ても、生物規制について"売買"に問題がある事が最も目立つ。森林伐採も問題だが、乱獲者が沢山いれば"塵も積もれば山となる"で、生物種の個体数減少は環境破壊と言えるくらいに影響を及ぼしかねない。
https://w.atwiki.jp/arashishinbun/sp/
乱獲業者の需要になりそうな"昆虫コレクター"というとフィクションドラマ「相棒」の登場人物である"染井さん"のイメージが強くある。彼のような挙動の熱狂的コレクターを現実で見られる事は普通無いが、一般的なイメージはあのようにある。
https://unatia.net/aibou-season4-14/?amp=1
(或いはコレか)
19世紀の大家アルフレッド・R・ウォレス氏は不安定な生活ながらあらゆる外国未開地を開拓され、成果の生物体資料と著書を売る事で費用を集められたとされる。勿論其の時代での「乱獲」と言われる程の短期大量採集はされていない。他者との調査地競合をせず、仲間と共に長年をかけて様々な僻地に入域しつつコツコツと必要分のみ先駆的に集められている。時と場所によるが、此の方式が最も安定と信頼がある。
しかし堅気とはとても思えない商売をしている人達も混じって見られる。仮想通貨的な商法や転売は"乱獲など不要"とする業界健全化とは逆方向であると懸念する。
https://twitter.com/moukon_genius/status/1592004085460643841?s=46&t=JPxASBxTDtRlTJxZUqRXrw
様々な事を考慮すると"絶滅危惧種として指定あるいは規制される野生生物個体群を不特定多数向けに短期転売"みたく違法〜違法スレスレの売買は厳しい規制の必要性を特に高めると理解出来る(飼育規制にも連鎖しうる)。過去には日本国内でも警察沙汰すらあった。そういう転売をする人達は、実は自己犠牲に扮した"隠れ規制賛成派"なのかもしれないが、いずれにしても様々な社会倫理に合わない。乱獲を促しかねないような売人が環境破壊を非難しても説得力があまり無い。寧ろ前述したような「ワシントン条約は時代遅れ。更なる厳罰を。」という話の説得力を一層強くする。
http://blog.esuteru.com/comment/9812111/172
https://togetter.com/li/1960975
https://agora-web.jp/archives/221113055557.html
"研究をしているから乱獲して良い"ともならない。ABS問題の推進はコンタミ抑制・乱獲抑制に役立っている。これではどうしても"規制が有った方が良い世の中"になる。規制が有れば乱獲による個体数減少を未然に抑制出来るから。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/204877
しかし規制された分類群は暴騰しやすい(マルガタクワガタ属のように)。"ザル法による規制"は乱獲を野放しにしながら高額売買を促す。野放しにされているメガソーラー事業による森林伐採等で生物の個体数が減れば、"希少性"が売り文句になるような生物種が乱獲される連鎖に繋がる。
生物採集をしたくて規制に反対するのなら、乱獲について考えねば不条理な主張にしかならない。"乱獲を促す流通"も並行して批判せねば筋が通らない。
真理を追究する人間どうしなら、一時は見解の相違があっても、いずれ分かり合える。
だが、利権を追求する人間とは、利害が一致しない限り永遠に分かり合えない。
https://twitter.com/hkakeya/status/1591576518274449408?s=46&t=YpqwAP9rZe32SjoJaoYLXA
しかし、現状の世の中を鑑みるに規制が増えても解除される未来はあまり見えない。
https://www.jijitsu.net/entry/Kuroiwa-Kusatsu-kakiokoshi-kaiken